今日は、遠い遠い遠縁の親戚の法事に行った。
朝の早くから、1日がつぶれた。
法事って、好きなひとなんぞ、いないだろうと思う。
主催する側も、参加する側も。
好きなことばかりやって、キライなことをやらなかったら、世の中、おかしくなる。
労力、時間、お金???これらを使って、
自分の家の者だけでなく、親戚の労力、時間、お金をも強制的に使わせて、
死者を円満、円滑にあの世にお送りする。
キリスト教には、法事なんてないんだろうなあ。
その代わり、奉仕活動とか、そういうのがあるのかな? (詳しくは、正確には、よく知らないが)
なんで、一生のうち、
大圍通渠数回しか会ったことがないような人に対して、
親戚までもが、遠いところを、えんやこらさ~と、行かなければならないのか?
嫌ならやめたら?ってことだろうけれど、それが出来ないのが、情けないところ。
地域や親戚から、仲間はずれに、されちゃうじゃないですか。
仲間はずれにされてもいい勇気を持たない。村八分は、嫌。根性なし。
となると、もはやこれは信仰心ではないですね。
わたしには、まったく、法事の意義、意味がわからない。
でも、参加もするし、主催もする。
何度、出席しても、何度、
屯門通渠主催しても、何度、僧侶にお経をあげてもらっても、いっこうに、信仰心が芽生えない。
読経のあいだは、まったく違うことを考えている。
でも、それを誰かに、口に出して言うわけでもなく、非難するわけでもなく、
ごく自然な生活の一コマとして、捉えている。
おそらく、なにも悪いことが起こらない、平穏無事に過ごせているということが、この信仰の効果。
まじめに祈らない、という、
荃灣通渠フマジメ信仰は、幸せな毎日を送っている証拠だ。
必死に祈るような時は、不幸から脱したいと強く願う時かも知れない。
こんな、いいかげんな気持ちでやっていて、安易に平和を手に入れていることに、もっと反省しないといけないかも。
信仰心(無信心であること)に逆らって、地域や親戚、まわりと歩調を合わせるのも、
カラダだけでなく、こころも抵抗し、少し苦痛だったりするので、
それはそれで、その代償として、「(無信仰のくせして)、デキのわるい、あんたが皆に合わせて、がんばったね」と、
小さな安泰をご先祖様がプレゼントしてくれているのか?
その「ご先祖様プレゼント発想」自体、小さな小さな信仰心の芽生え?
幸せボケ。
現に、さっきから眠くて眠くて、うつらうつらしながら、これを書いている。